KNOWLEDGE OF PERSONNEL AND LABOR

人事・労務の知識

人事のブレーン社会保険労務士レポート第189号
最低賃金額を引き上げると労働者が幸せになるという誤解の解説

1.はじめに

最低賃金額を引き上げることが政府の目標となっており、デフレ脱却や働き方改革に伴う非正規社員の待遇改善などにつながると考えての政策です。
しかし実態の企業活動では全く逆のことが起こっておりとりわけ中小企業においては頭を悩ませている経営者の方が多いのです。

2.最低賃金額に対する誤解

(1)前提条件の誤解

私は最低賃金額の議論の中で前提条件がおかしいから実態に合っていないと考えております。
そもそも最低賃金額というのは「昨日まで中学生」であった高校生のアルバイトにも適用されます。
右も左もわからず、社会人としてのマナーもまだ分からない労働者に対して適用されるのです。
「1000円も支払えない会社はつぶれろ」という心無い意見を言う人もいらっしゃいますが、100歩譲って3年間まじめに働いて社会人として一人前となった労働者には最低賃金額を1,000円以上にしなさいということであれば理解出来ます。

最低賃金額の議論で無視されているのはこの視点なのです。

優秀な高校生もたくさんいらっしゃいますが、議論をわかりやすくするために「高校生のアルバイト」という表現を使わせていただきますが、まだ職業人として右も左もわからない、マナーもわからない労働者にも最低賃金額が適用されるということが問題なのです。

(2)価格転嫁できない苦しさ

最低賃金額が引き上げられると高校生のアルバイトの賃金額も引き上げられます。
ここでどの様な現象が起こるのでしょうか。
昨日まで中学生で社会人経験のない高校生の賃金額が上昇するのですから、5年、10年勤めているパートタイマーの時給も上げなくてはなりません。

これが問題なのです。

政府が考える本来の政策意図ではこの最低賃金額の引き上げにより、社員全体の賃金額がそれに比例して上昇するということでしょう。

しかし現実はそうではありません。

何故そうならないかというと「価格転嫁」が出来ないからです。
今年の4月から乳製品が値上がりました。
しかし、スーパーなどの小売価格はそれほど値上がりしていません。
ナショナルブランドの商品はその値段で「安い小売店」か「高い小売店」かを判断できます。
同じ商品であれば安いほうが消費者は有難いわけです。
乳製品の仕入原価が上昇しても、それを価格転嫁できずに利益を圧迫している小売店の苦労がわかります。
これは人件費も同様なのです。
最低賃金額が引き上げられてもそれを商品や役務に価格転嫁することができないのです。ここが非常に重要なポイントです。とりわけパートタイマーを多く雇用している企業や長時間労働が常態となっている小売、外食、運送、理美容では非常に苦しんでいるわけです。
価格転嫁できないわけですから総人件費は増やすことができません。
最低賃金額の上昇により職業能力が未熟な労働者の賃金額を引き上げた結果、熟練した労働者の賃金額を引き上げることはできなくなります。
スーパーでは日曜日の夕方がアルバイトの集まりにくい時間帯のようで、その対策として「日曜日手当」「夕方手当」をつけている企業も多いようです。結果として平日の昼間に10年働いているお母さんより、日曜日の夕方働いている高校生の娘の時給が高いという冗談みたいな現状があります。
高校生に985円の時給を支払ったかといって、10年勤めているパートタイマーに1,300円支払えるほど企業に余力はありません。
職業能力が未熟な高校生と熟練した労働者の賃金額の差が縮まっているのです。この点も「価格転嫁出来ないような付加価値の低い仕事は淘汰されて当たり前だ」という方もいらっしゃいます。しかしその方が毎日安いランチを食べられたり、スーパーで安い買い物ができるのは価格転嫁できない競争を強いられている企業がいるからなのです。
定価という概念がなくなりましたが、定価という概念を復活させて小売価格を強引に引き上げていかなければ最低賃金額の問題は解決できないと思います。

(3)正社員の賃金を高校生へ

最低賃金額は月次の賃金額に対して規制されるものです。賞与については最低賃金法の適用はないばかりか、労働法的にも支払い義務のないものです。
また、昇給も法律で義務付けられているものではありません。
最低賃金額が上昇をして、価格転嫁ができない現状では、総人件費を増やすことはできません。
職業能力が未熟な労働者に対する賃金額の上昇の原資を捻出するために「熟練した労働者」の賞与原資を取り崩していかなければならない。
すなわち最低賃金額の上昇により正社員の賞与額が下がり年収が下がるということになるのです。
利益が出なければ賞与は支払えませんから当然のことなのです。
中小企業で人事や財務に携わっていればこんな単純なことはわかるのですが、政府にはご理解いただいておりません。

また、昇給額の原資も最低賃金額の上昇にまわす必要がある為に、熟練したパートタイマーの賃金額の上昇も抑制されます。
「高校生のお小遣いは増えても家計は苦しくなる」とよくお話をさせていただきますが、非正規社員の待遇改善にもつながっていません。
高校生も成長し、いずれは熟練した能力を持った社会人になるわけですから、「取り崩される側」になるわけです。

能力の差による賃金額の差がつけづらい社会になってしまったのです。 

3.まとめ

この様に最低賃金額の上昇により誰も幸せにならないことがご理解いただけたと思います。
デフレ脱却のためには最低賃金額を上げるより、様々な企業負担、例えば社会保険料の上昇や最低賃金額の上昇といったコストを価格転嫁できる仕組みが必要です。
私の子供が通う小学校の学童保育所の建設は「入札不調」が続き工事がなかなか始まりませんでした。
安ければいいということで競争原理を働かせて発注する。
これはいい事だと思いますが、労働政策や社会保障政策においては企業の競争原理を制限し、労働者の権利保護を図っています。
労働政策では競争原理が働かない様に進めつつ、製品に対しては競争原理を求める。
これが現在の労働環境の厳しさを生み出しているのだと思います。
能力差を賃金額に反映させて所得を増やしていく為には、価格を一定の水準に維持する為の政策を進めていくことが重要であると考えます。

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