社会保険の強制加入にみる我が国の変化とその対策について
1. 信頼関係を前提とした我が国の文化
私は小学校のPTA会長を拝命しています。
PTAとは保護者と教員とが連携をとって円滑に学校運営を行っていく組織です。このPTAは任意加入の団体であり、その学校の保護者が全員PTAに入らなければならないというルールはありません。
しかし任意加入でありながら、ほとんどの保護者は加入をして、活動に協力して下さいます。
町会という制度も同様に考える事が出来ます。
入会を強制するルールがないから「入らない」という方はほとんどいません。
PTAや町会を例にお話しを致しましたが、これは「強制的に加入をお願いしなくても、みんな加入してくれるであろう」という相互の信頼関係が日本文化の土壌にあって成り立つものであると考えるのです。
形式上「任意加入ですよ」といいながら、「全員加入を前提とした組織」になっています。
任意加入といいながら、ほぼ強制的に加入をお願いしているのです。強制的に加入させるルールが無いのにもかかわらず、PTAや町会に全員加入していただく前提でシステムが出来ています。そうであれば、法律等で強制をすればいいのでしょうが、強制しなくても全員が加入してくれるという信頼関係があり、「任意加入的強制加入団体」というものが成立してしまうのが我が国なのだと思います。
ルールをつくって「強制加入」とするよりも、実質的には強制加入であるにもかかわらず、「任意加入」という形式をとることが我が国の風土に合っているのかもしれません。
こういう相互の信頼関係に基づく社会が、日本の社会だったのではないでしょうか。
2. 法律の適用では
我が国の法律は、行政と国民の間に「法律の運用について一定程度柔軟に対応する」という暗黙の了解がなされている様に思います。
例として適切かどうか分かりませんが、刑事訴訟法第475条2項で「死刑確定判決後6ヶ月以内に法務大臣が執行を命令しなければならない」とされています。しかし、皆様がご存じの通り、死刑についてはこの法律通り執行をされていません。
全ての法律を厳格にルール通り運用するという文化ではなく、状況に応じて柔軟に対応していくというのが我が国の文化であったのです。
しかしこの柔軟な法律の運用が「裁量行政」と批判され、厳格な法律の運用が求められる社会になってきました。
これは私の専門分野である人事の部分で多く感じられます。ここでは社会保険を例に掘り下げていきたいと思います。
社会保険の適用については、PTAや町会といった団体で行われている様な取り扱いがなされておりました。
PTAや町会は「任意加入的強制加入団体」という位置づけですが、今までの社会保険の適用についてはその逆の「強制加入的任意加入制度の運用」でした。
社会保険料は高いですから、創業したての企業や利益が出ていない企業は、「余裕が出来てから加入してもいいですよ」という文化がありました。
法律的には強制加入なのですが、運用上は任意加入的な余地を残した適用を行ってきました。
しかし、昨今の行政の対応はこの様なものではなく「ルール通り強制加入して下さい」という対応に変化しました。
背景として、年金財政の問題があり、法改正により適用対象者の拡大や保険料率の引き上げをした場合に企業サイドの反発が予想されます。実際に企業実務に携わっていると、企業の負担は限界に来ています。
しかし年金財政は非常に厳しい現状があります。法改正を必要とせずに保険料を増やすには、今まで任意加入的強制加入制度の様な運用をしてきたルールを変えるのです。
お互いの信頼関係を前提とした契約社会ではなく、ルールを厳格に適用する契約社会への変化を感じています。 我が国の商慣行は、契約書ではなく、お互いの信頼関係を重視したものでした。これは労働契約もしかりです。
しかし、この信頼関係を前提とした商慣行は欧米の様な「契約社会」に変わりつつあるのです。
私達は、この日本社会の変化を感じて対策を立てなければならない時期なのではないかと思うのです。
3. 社会保険の適用の変化
最近、年金事務所から「来所要請通知」や「最終届出指導」という名称で文書が来ている企業が増えています。
対象企業は社会保険の未加入事業所で、その内容は、「期限までに社会保険に加入をしなければ職権で立入検査をして、社会保険を適用させますよ。その場合には2年間遡及して加入させるので保険料も2年分かかります。しかし、今自主的に加入をするのであれば、将来に向かって適用するので、2年間遡って保険料を発生させません」というものです。
健康保険法第百九十八条・厚生年金法第百条では立入検査権というものが定められており、年金事務所の職員は企業に立入検査をして、その企業の実態を調査する権限が与えられています。
これは税務署職員の税務調査と同じようなイメージで考えて下さい。
今まで権限を持っていたのですが、それを使っていなかっただけで、大きな権限を持っているのです。
また、立入検査を拒んだり、虚偽の報告をした場合には健康保険法第二百八条・厚生年金法第百二条第一項第5号で「6月以下の懲役又は50万円以下の罰金」と定められています。
この罰則も昔からありました。
いうまでもありませんが、法人にとって社会保険は強制加入です。
しかし、その負担額の多さから、資金的に余裕が出てから加入するという運用がなされていました。 行政と企業の間で、この様ないわゆる「あうん」の間合いがあって、お互いの信頼関係を前提として行政の柔軟な対応がなされ、設立間もない企業などは大変に助かっていました。
しかしこの「あうん」が裁量行政であると批判され、法律通りの適用がなされる様になりました。 法律通り、厳格に運用をするということは一面正しいのですが、我が国の法律は「あうん」という文化を前提としてつくられ、行政と民間人との間に「あうんの呼吸」で法律の適用を柔軟にしていこうという文化があるのではないかと思います。
裁量行政を全面的に肯定するつもりはありませんが、裁量行政により、我が国の社会が円滑にいっていたことも事実でしょう。
4. 法律家にも変化が必要
行政と国民がお互いの信頼関係を前提とした「あうん」の間合いが有効に機能していた時代には、法律家に求められる能力も「行政機関との信頼関係」が重視されていました。
しかし「法律の厳格な適用」を前提とする社会では「行政との信頼関係」はあまり意味をなしません。行政にしっかりと主張をして、説得出来る能力が重要になってきました。
これは労働分野については、企業と労働者との関係にも言えることです。
「法律」や「判例」といったツールを上手に使い、依頼者の権利擁護を行っていく能力が非常に重要になってきたのです。法律家も変わらなければ選ばれない時代になったのです。
5. まとめ
社会保険に加入するためにはどうしたらいいのでしょうか。
厳格な法律の運用でこの様なご相談が増えています。
総人件費を抑制して社会保険料を捻出することしか対応がありません。
賞与を支給出来ている企業は、その賞与で調整することも方法でしょう。しかし、賞与が支給されていなかったり、その額が少なかったりする場合には月次の給料を下げなければなりません。
これには年単位の準備期間がかかります。ルールを厳格に適用すことは否定をしませんが「任意加入的強制加入制度」として実質的な運用をしてきた制度が、急に法律通り「強制加入」とすることにより、多くの企業が資金繰りに行き詰まります。
政府は賃金を上げろと言っておりますが、「最低賃金の上昇」「消費税の増税」に加えて、「社会保険の厳格な適用」により中小企業は大変に厳しい状況になっていることは事実です。
社会保険の厳格な適用の方針はこれからも変わることがないと予測されます。 いつ年金事務所から呼び出しが来ても対応できるように今から準備をしておく必要があるでしょう。
「初出:週刊帝国ニュース東京多摩版 知っておきたい人事の知識 第48回 2013.12.24号」