人事のブレーン社会保険労務士レポート第147号
最低賃金と社会保険の適用拡大
1.はじめに
安倍総理が最低賃金額を1000円に引き上げるという指示を出したとのこと。 耳を疑いましたが事実のようです。 これで経済がよくなるということはありません。
皆様にご理解頂きたいのは、「賃金を引き上げるということ」と、「最低賃金を引き上げるということ」は全然違います。
賃金額が上昇することはいいことであり、これは否定しません。賃金額の上昇の恩恵を中小企業まで行き渡らせるためには何をすべきでしょうか?
;賃金額を引き上げるためには、大手企業と中小企業の取引価格の引き上げが必須です。
この取引価格が上昇することが、中小企業への賃上げ余地を与えることなのです。
仕事量が増えても、単価が上がらなければ賃金額は上がりません。
これは経済学の偉い先生方もよくご存じだと思います。
大手企業へは、賃上げ要請より、中小企業との取引価格を引き上げる要請を しなければ効果はありません。
賃金を上げるという政策の目的は経済の活性化です。
これをやって初めて効果が出てくるのです。
2.最低賃金額の引き上げは経済の活性化につながらない理由
1)最低賃金額と総人件費の上昇は違う
最低賃金額を引き上げるということはどの様な事なのか。
取引価格が上がらなければ総人件費を変えることはできません。
ですから最低賃金額の上昇コストを正社員の賃金から捻出しなければならないという事となります。
具体的には、正社員の賞与カットや賃上げ額の抑制です。場合によっては賃下げをしなければなりません。
最低賃金額の上昇により「高校生のお小遣いが増えて、お父さんのお小遣いが減る」と揶揄するのはこれが理由です。
平成28年10月からの週20時間以上の労働者への社会保険の拡大と併せて、中小企業にとって大変厳しい政策です。
最低賃金が1000円だと月給の所定内賃金額は17万円程度が最低賃金額になります。
これは家族手当、通勤手当、皆勤手当などの手当は含まれません。
賃上げの目標は「企業の総人件費を増やして、企業が労働者に支払う賃金総額を増やす」ことです。
最低賃金額を引き上げるということは、総人件費を増やさないで、高校生のアルバイトを含めた付加価値の低い労働の単価を上げるということです。
付加価値の高い仕事をしていても、賃金額が上がらないばかりか、賃金総額が下がるケースも出てくるのです。
これでは景気がよくなるはずがありません。
企業の体力を消耗させないで、総人件費を増やすことを目指さなければなりません。
これには「中小企業が価格転嫁できる環境整備」が第一です。
これをやらずに「賃上げ」の旗を振っても、中小企業は何もできないのです。 順番を間違ってはいけません。
(2)最低賃金額の上昇で厳しい業界
価格転換できないコストである最低賃金額の上昇によりどの様な業界に悪影響が出てくるのでしょうか。
まず運送業が非常に厳しい。
貨物運送は燃料の上昇や人手不足による賃金額の上昇と荷主からのコストダウンの要請で現在でも大変厳しい状況です。
旅客運送はどうでしょう。
タクシーなどは完全歩合でないと利益が出ませんが、売上げが低いために最低賃金額に稼働時間を乗じた最低補償額しか払えていない企業が多いのです。
これは労働環境が悪いというより、最低賃金額が高くなってきたからです。
運送会社の収益は悪化する一方です。
美容・小売り・外食もやっていけません。
現在の最低賃金額でも残業手当を支払うのに苦労しています。
更に最低賃金額が上昇したら大変です。
美容でいえば、技術のない新規学卒者の雇用はどうなってしまうのでしょうか。
小売り外食も、売上げの少ない時間帯、深夜や早朝の営業をやめる企業が多くなって行くでしょう。
社会保険適用の対象が週20時間以上になったら、スーパーは19時閉店が主流になってくるでしょう。
人手不足と併せて9時間以上の営業コストが増えてきますので採算が合わなくなります。
便利な世の中ではなくなります。
夜20時になったら真っ暗な街になってしまうでしょう。
小売業や外食の閉店時間が早くなったら、働く女性を応援するといっていますが、買い物できなくなりますよね。
建設業も拘束時間が長いので、日給10000円では9時間しか働けなくなります。
建設業の頭の痛い問題点は、現場への移動時間の評価です。
これを労働時間とされると日給10000円では到底足りなくなります。
この点はどの様に考えるのでしょうか。
これらの上昇するコストを転嫁できるのか。
全てはできません。
最低賃金額が1000円になったらどの様な社会になるのか。
もっと真剣に想像をして議論をすべきだと思います。
心ある労働基準監督官も、本音では現在の最低賃金額に限界を感じている現状があります。
3.社会保険の適用拡大
(1)賃下げ圧力となる社会保険の適用拡大
健康保険と厚生年金(以下「社会保険」といいます)の加入対象者が平成28年10月1日より週20時間以上の労働者に拡大されることについて、格差を助長する政策であるということを掘り下げてみたいと思います。
但し、500人以下の企業には当面の間、この規程の適用はありませんが中小の小売店などは該当してきます。
まず社会保険の仕組みは、本人の賃金額から控除される保険料と同じ額を企業は負担しています。
社会保険に加入するということは、この保険料を企業も負担をするということです。
ですから現在概ね週30時間程度の労働者から週20時間以上の労働者に社会保険の適用範囲が拡大するということは、週20時間から30時間の労働者の人件費が保険料分上昇するということです。
この保険料はどこから出ているかというと企業の利益から出ています。
この保険料分を単価に価格転嫁出来なければ企業の資金繰りは非常に厳しくなります。
最低賃金が上がり、単純労働の労働者の賃金も上昇しました。
最低賃金額のところでお話しをしましたが、経済を活性化させるために総人件費を増やさなければなりません。
価格転嫁出来ない最低賃金の上昇では、この総人件費は増えませんから正社員の賃金額は減ってしまうとお話をしました。
社会保険に加入すると保険料で賃金の約15%コストが増えます。
つまり、総人件費のうち社会保険料が増えて、労働者に直接支払う賃金原資が減るのです。
しかも15%という大きな水準で。
ますます賃金を引き上げるということはできなくなるのです。
最低賃金額の上昇コストと、社会保険料の増大のコストを価格転嫁することは容易ではありません。
政府は「賃上げ」を標榜しておきながら、その原資である「総人件費の中の賃金総額」を減らす政策を同時にしているのです。
(2)労働市場はどこにある
単純労働に従事する労働者は、途上国の賃金の安い労働者と競合しています。
労働のアウトプットが高い付加価値を生み出せない労働者に対しては、企業として高い賃金を支払う事ができません。
なぜなら海外に安い賃金で働いてくれる労働者がいるからです。
国内経済のみを捉えていても、最低賃金額の上昇や社会保険の適用拡大といった問題は解決しないのです。
労働の結果のアウトプットが低い付加価値である業務を海外に持って行けと言っているに等しい政策なのです。
労働市場を世界的に見てみると労働力が過多であるので、日本国内の労働市場だけで政策を決めていたら産業の空洞化につながるのです
(3)国民年金の第三号被保険者の改革を
そもそもの原点に戻り、何故社会保険の対象者を拡大しなければならないのでしょうか。
本質的な問題は「国民年金の第三号被保険者」です。
第三号被保険者とは何か。
サラリーマンである第二号被保険者の被扶養配偶者です。
この第三号被保険者の特徴は、国民年金の保険料は払わなくてもいいということです。
払わなくても、払ったとみなして年金をもらうことができるのです。
女性の社会進出を考える際、「103万円の壁」とか「130万円の壁」といわれていますが、前者は税金の問題。後者は健康保険の扶養の問題。
言い換えれば第三号被保険者として保険料を納めずに特典を受けられる収入が130万円という問題です。
しかし、ここには大きな落とし穴があり、いくら130万円以下の所得でも、企業に概ね週30時間以上勤務していると社会保険の加入義務が生じます。
ですから正確には、「年収が130万円以下で、なおかつ週の労働時間が概ね30時間未満の配偶者」が第三号被保険者の要件なのです。
これが法改正により「年収130万円以下で、なおかつ週の労働時間が20時間未満の配偶者」になります。
第三号被保険者の特典を受けるためには「週20時間未満の労働」が必要条件になります。
それ以上働けないのです。
そして企業サイドも、週20時間以上働く労働者は社会保険に加入をさせなければなりません。
保険料だけで、15%程度総人件費が上昇してしまいます。
しかも前述のように商品価格に価格転嫁出来ませんから、利益が減ります。
この辺のデメリットは前回の最低賃金額の上昇でお話をしたので省略します。
この15%の人件費の上昇に企業は堪えられません。
価格競争の中、必死に利益を出している企業が殆どですから正社員の賞与を削ったり、昇給を抑制するしか方法がありません。
それでも間に合わない企業の第一の選択肢は「賃下げ」です。
実際に賃下げをして社会保険に加入する企業は非常に多いです。
第二の選択肢は「労働者を週20時間未満で雇う」ということです。
週30時間未満で雇うということは、実際小売りや外食といった利益の薄い業種で行われていますが、これが20時間に引き下げられると大変です。
ここで始まるのが労働者の二極化です。
フルタイムで働けるパートタイマーと、週20時間未満でしか働けないパートタイマーです。
生産性の低い労働については、週20時間未満の労働者に担ってもらうしかありません。
ここで出てくる問題は「人手不足です」。
1人でやる仕事を、社会保険の基準により、2人や3人でやらなければならないので、人材が不足します。
これにより募集コストが上昇し、単純労働者の時給額は上昇しますが、企業の売上げが増えるわけではありません。
単純労働者の時給額は上がりますが、労働時間が抑制されますので収入は下がります。
いいことありません。
結果的に、フルタイムで働ける労働者とそうでない労働者の収入格差は開きます。
能力が高い労働者でないとフルタイムで働くことができない社会になってしまうのです。
誰も幸せになりません。
ではどうしたらいいのでしょうか。
社会保険に加入することとなる労働者は、年金という形で将来リターンがあるのでやむを得ないとしましょう。
問題は「企業負担」なのです。
企業負担無しに、非正規社員から年金を納めてもらう方法は「第三号被保険者から年金保険料を取る」ことです。
これをやりたくないがために「非正規社員の待遇改善」という耳あたりのいいスローガンの下、社会保険の適用拡大をしているのです。
第三号被保険者から保険料を取ればいいだけの話です。
本質をあやふやにして、年金財政の辻褄を合わせようとしていることが問題なのです。
政府は消費税が10%に引き上げられた場合の景気対策を検討していますが、それよりも社会保険の適用拡大の効果が、経済を失速させるということを認識して対策を考えていかなければ中小企業は倒産してしまいます。
経済対策の効果を打ち消す政策であるという認識を持って取り組んでいかなければならない問題なのです。
4.まとめ
経済を活性化するには労働者に直接支払う賃金額を引き上げることは異論がありません。
価格転嫁出来ない中小企業にとっては、「最低賃金額の上昇」も「社会保険の適用拡大」も賃下げ圧力にしかならないのです。
「最低賃金額の上昇と総人件費を増やす賃上げとは全く別のものである」
「社会保険の適用拡大は総人件費の中から賃金額となる原資を減らす事になる」
この2点をご理解頂ければ幸いです。
表面的な報道に流されず、本質的な議論を進めていただきたいものです。